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  • 2021/04/23
  • 2021/06/12
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長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡(北西端)

(はせがわへいぞう・とおやまきんしろうやしきあと)

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文字起こし
長谷川平蔵宣以は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。 平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによっ て築地からこの本所三之橋通りの千二百三十八坪の邸に移りまし た。ここは屋敷地の北西端にあたります。
長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)、 かつて父もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭に昇進し、 火付盗賊改役も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太 郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没 するまでの八年間もその職にありました。
また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現 した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な 博愛・人道主義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする 日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
寛政七年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替 えとなり、替わって入居したのは遠山左衛門尉影元です。通称は 金四郎。時代劇でおなじみの江戸町奉行です。
遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、 天保十一年(一八四○)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋 敷として使用されました。
屋敷地の南東端にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居 跡碑が建っています。
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