銭は、中央に四角い小さな孔(あな)をあけた円形の 金属貨幣で、国内では七世紀後半の富本銭(ふほんせん)の鋳造に始まると考えられています。八世紀初頭から 十世紀半ばにかけては和同開珎(わどうかいちん)をはじめとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせんちゅうぞう)が鋳造されました。公鋳銭の発行は、平安時代の末から長らく途絶しましたが、寛永十三年(一六三六)六月、江戶幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂本に銭座を設け、寛永通宝(かんえいつうほう)を発行するようになりました。そして以後、幕末に いたるまで各種の銅銭が流通したのです。
江戶時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿』(しんべんむさしふどきこう)によれば、当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千m)に及んだそうです。稼働期間は不明ですが、『古今泉貨鑑』(ここんせんかかがみ)によれば、元文元年(一七三六)十月二十日に裏面に「小」の一字を入れ た寛永通宝が鋳造されたよう です (右図)。運営は、幕府の御用商人が 請け負いました。幕府の財政経済資料をまとめた『吹塵録』(勝海舟編) には、野州屋・南部屋という二つの屋号が確認できます。
なお、墨田区内では、当地のほか押上や本所馬場、本所横川にも銭座があったとされ、とくに本所馬場では天保通宝(天保銭)を鋳造していたと伝わっています。
平成二十五年五月
墨田区教育委員会