この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
その規模は、『同天台の記』という史料によると、周囲約九十三・ 六メートル、高さ約九・三メートルの築山の上に、約五・五メートル四 方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料『寛 政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さ は九メートルだったという。
幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「沖天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、 父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(一八二)、天文方内に「番書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、番書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
天文台は、天保十三年(一八四二)、九段坂上(現、千代田区九段北) にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
平成11年(1999年)3月 台東区教育委員会